【第6章 言語の理 D】日本語と英語の比較

一人称の比較

一人称とは、話者が自分を指していう言い方である。この一人称の使い方を英語と日本語で比較してみたときに、面白いことがわかる。

英語の一人称を指す代名詞は“I”というたった一語である。この“I”という言葉はその他の人称とは異なった特性を持っている。それは、常に大文字で表記されるということである。英語の文章の表記の仕方は、アルファベットという表音文字を一定の順序に配列することによって単語を構成し、そのアルファベットで構成された複数の単語を一定の文法にしたがって配列していくことで文を作っていくものである。その一つの文の一番初めに来る単語の一番最初のアルファベット(頭文字)は大文字で表記され、その他のアルファベットは全て小文字で表記される。

つまり、英語ではその文を構成する文字のほとんど全部は小文字で表記されるのである。文の一番初めの頭文字以外の部分でアルファベットが大文字で表記されるのは、固有名詞を表記する場合に頭文字を大文字で表記する場合のみである。このことから、英語においては大文字で表記されるということは大きな意味を持っているといえる。つまりそれは文章の始まりであるか、この世界の名で一つしかないものつまり固有名詞を表すときにしか使われないのである。このことから、英語では小文字で表記されるものは一般的なで普遍的なものであり、大文字で表記されるものは特殊なものであるということが言える。

ところが、英語では一人称を表す“I”に関してだけは、“I”という言葉が文のどの部分に使われていようと、大文字で表記するという規則がある。決して一人称の“I”が小文字になることはないのだ。他の人称を表す言葉、例えば二人称を表す“you”や、三人称を表す“he”“she”の頭文字が大文字で表記されるのは文頭にあるときに限られることに比べると、明らかに特別なものとして扱われているのがわかる。つまり、一人称を表す代名詞の“I”は常に固有名詞と同じ扱いなのである。

このことからは英語の感覚というものが一人称である自分を常に他の存在に対して特別扱いするものであるということがわかる。

これに対して日本の一人称は、実に様々なものがある。「私」「僕」「俺」などがそうである。この他にも、日本語の一人称は自分と相手との関係によって変わっていくのである。

例えば自分が自分の息子と会話するときには「父さん」という言葉が使われる。あるいは自分が教師であり、教え子に対して使う一人称であればそれは「先生」となる。また、同じ一人称でも目上の人間に対して使って良い一人称と使ってはいけない一人称というものがある。

これら英語の感覚について、大津栄一郎氏は『英語の感覚 (上)』で英語の人称代名詞は対象となる人間の「人格」を表した言葉であるのに対し、日本語の人称代名詞は対象となる人間の位置関係を表している言葉にすぎないと言っている。つまり、日本語の人称代名詞は「人格」的存在としての対象を表しているのではなく目に見える部分だけを表しているのであって、ここから日本人と英語国人の自己感覚はかなり違ってくることになるのではないかと思われる。日本人は自己を外から見える対象との位置関係によって決まる相対的存在として知覚しているのである。それに対して英語国人の自己は、外見の奥に「人格」を持っている存在に囲まれていて、他人に対抗する為には全く対等に自己を維持しなければならないとともに、英語国人は自己を一切の中心としての絶対的存在と考えているというわけである。また、単に一人称の場合だけではなく、ほかの人称つまり二人称や三人称についても日本語と英語では捉えかたが異なっていて、日本語では上下関係や位置関係によって人称が規定される為に自己は自分以外に自分とまったく対等な存在を持つことができないが、逆に英語国人は全ての存在を自己と同一の平面上にあるものとして捉える為に、自分と対等でない存在は想像できないというのである。

ここで興味深いのは日本人の自己感覚が相対的であり、英語国人の自己感覚が絶対的であるということである。先のいくつかの章で見てきたように、日本人の文化に根ざしている世界観は氏神、陰陽五行、仏教などの主に「象徴の世界観」の色合いの強いものであった。氏神信仰は血縁を基本にしたさまざまな「氏」が存在し、その「氏」が互いに独立した存在として相対的に社会を構成するものであった。陰陽五行は世界を陰と陽、火木土金水という互いに独立した象徴の連続的変化やイメージの結合による新たなイメージの形成というやはり世界を相対的に捉えたものであり、仏教は「悟り」それ自体は抽象の世界観のものであるが、日本で主流となった他力本願の仏教では菩薩や仏の信仰という面で象徴の世界観の色合いも兼ね備えているものであった。この事が日本において一人称の指すものが、自己の人格という概念ではなく、あくまでも表面的な、人間関係や上下関係、地位というものが基準になっているということを象徴しているように思えるのだ。日本人にとっては自己という概念ですら相対的なものなのである。

これに対して西欧の世界観はギリシャ神話やキリスト教である。ギリシャ神話は多神教であり、象徴の世界観の色合いの強いものであるが、それらの神が信仰されていた時代が古すぎて、氏神や陰陽五行、仏教などと比較するのは無理があるようにおもえる。だから、やはり歴史的に見ても大きな影響を与えているのはキリスト教であると考えるのが妥当であろう。

先にも見たとおり、キリスト教はその「言葉」というものの捉えかたに大きな特徴があった。キリスト教にとって「言葉」は神が世界を創ったときに使った、性質を付与する為の道具であった。そしてアダムが神によって神が創った様々な動物の名前をつけることを許されたという記述と、善悪を判断する禁断の木の実を食べるという二重のきっかけによって、人間が自分自身の取り巻く世界を解釈するということが象徴されていた。この事キリスト教聖書に見られる特色は、英語における自分自身に対する考え方、つまり他の何ものとも違った“I”という自己概念を持つことと重なっている。

先にも見たように、英語の一人称は常に一種類で、しかも他の二人称や三人称と違って特別扱いされている。この事は少なくとも英語圏においては、キリスト教と同じように、世界を解釈するものとしての自己が尊重されていることを指すといえよう。つまり、全てを包括する自己という「抽象的な自己」が存在するわけである。そして付け加えれば、自分以外のほかの人間もまた固有の人格を持ったものとして尊重されている。つまり日本語と違って、二人称や三人称を指す言葉も単数系と複数形という区別こそあれ、それぞれの時と場合に応じて別の単語が使われるということなく、常に一定の単語が使われているのだ。英語は、「抽象的な自己」が併存して存在するのである。

しかし、この事は「象徴」と「抽象」というこの論文を通して使われている概念の性質から言うと矛盾してしまうのではないだろうか。つまり、抽象とは全てを包括するものであるから、互いに併存する事などありえない筈ではないか。

この事についてもう少し突き詰めていく為に、もう少し英語の性質について見ていこう。