【第3章 一神教の理 C】キリスト教 人間の起源

神が人間を作った過程をもう少し詳しく見てみよう。神は土の塵で人間を形作り、その顔に命の息を吹きかけ、人間をただの土くれから生命のあるものとした。神はこの人間をアダムと名付けた。そして東の方のエデンに園(パラダイス)を設け、地面から見て美しい、食べるのに適した全ての木々を生えさせた。また、園の中央には命の木と、善悪を見分ける木を生えさせた。園の中には四つの川が流れ、その流域からは金や宝石が産出された。この四つの川の中にユーフラテス川も含まれている。神はそこにアダムを住まわせ、優美な園を耕させ管理させた。そして神はアダムに命じた。

「あなたは園にある全ての木から果物を自由にとって食べて良い。しかし、善と悪を知る木から採って食べてはいけない。」 

神はこの後、人間が独りでいるのは良くないとして、野に全ての動物、空に全ての鳥を土で形作った。神はそれらの動物をアダムの所に連れていってアダムがそれらの動物をそれぞれどのような名前で呼ぶかに注目した。アダムが生き物をそれぞれに呼んだ名前がその名前になった。つまり、神ではなくアダム自身が全ての動物に名前をつけたわけである。 その後神は眠っているアダムから肋骨を取り出して、女を造り上げた。そしてアダムはこの女と結ばれ二人は夫婦となるのである。

以上が人間の起源として記されているものである。ここで興味深いのは、人間がもとは土くれから作られているという記述であろう。これはギリシャ神話の人間の起源と共通するものである。また、その神の似姿をした土くれに生命を与える方法として神が息を吹きかけているということも面白い。これは古事記の神が無生物に生命を与える際にも使われている手法であり、古事記の神の場合と同様に共感の法則が応用されているものであるということができよう。

創世記と人間の起源の記述から判断できるキリスト教の興味深い特徴が三つある。まず一つは神という一人のものが全てを造ったとされていることである。これは、神の力を超えるものはこの世に存在しないということと、この世の全てのことを神が把握しているということにつながる。

つまりキリスト教は神という絶対的なものを中心とした世界観であり、複数のものがそれぞれの属性にふさわしい働きをすることによって世界が動いていると考える「象徴の世界観」とは本来的に異なっている。つまり、世界は一見複数のものが別個に動いているように見えても、それは神という絶対者の掌の中で動いているに過ぎないと考えるわけである。この意味ではキリスト教は「抽象の世界観」の典型といえるものである。しかし、「抽象」を体現する筈のものが「神」という人間の形をした、つまり属性を持ってしまった「象徴」として捉えられたところにキリスト教の限界があったといえよう。このことは第七章で詳しく述べる。

キリスト教の特徴のもう一つは言葉が重要視されていることである。天地創造の七日間において、神は様々なものを作るときにまずは言葉でそれを示した。例えば「光よ、現れよ」といったものである。これは古事記の神が人間と同じように性交という具体的な物を生み出す行動によって様々な自然現象、例えば火などを生み出したということとは大きく異なっている。キリスト教の神は、具体的に「生む」という行為を行わずにものを生み出すことができるのである。

つまり、キリスト教においては言葉は世界を生み出す根源なのである。まず言葉があって、その後に様々なものが生じてくる。言葉が発せられた後に初めて「存在」が許されるのである。つまり、言葉によって発せられないものはそもそも「存在」しないのである。だから、名づけるという行為がかなり重要なものとなってくるのである。

キリスト教の特徴の最後の一つは、他の生命と違って、人間のみが本来神にのみ許されていたはずの属性を備えることが許されたということである。まず一番初めに人間は元々は土くれから造られているとはいえ、その姿を神自身に似せて造られている。つまり、その形が神の姿と「共感」しているのである。次に人間は、「存在」を言葉で区分けすることを許されている。これはアダム以外の動物、つまり全ての動物を神が直接名付けたのではなく、アダムに名付けさせ神はただそれを見守っていたということからわかる。つまり人間は「肉体」という実体の類似性と、「言葉」という存在を与える根源のものを使役するという二つの側面で神と似通った性質を持っているのである。神と「共感」することができるのである。

この三番目の特徴は人間に対して大いなる力を付与することとなる。つまり、人間は本来は神という絶対者のみが持つ、抽象性を自らの意志で創り出すことができるという資格が与えられたのである。

キーワードは「言葉」である。人間がただ言葉を発するようになるだけでは大した意味をなさない。神の発する、全ての物の存在の前提条件になっている言葉と同一のものを人間が使役することができると考えることが、人間にとっては大きな意味を持っているのである。この事が、人間の力を飛躍的に発展させるのである。

キリスト教では、世界に存在する全ての物事に対して人間自身の意志によってその存在の意味を与えることが出来るようになった。このことは現代社会で最も大きな力を持っているといえる「科学の世界観」を発達させる前提となるのである。

キリスト教と日本の古事記の神々を比べてみると、「言葉」の扱い方に根本的な違いがある。第二章で出てきたように、古事記の神、いざなぎといざなみは国生みを行うとき、声を掛け合ってから性交をしている。つまり、古事記においても言葉は物を生み出す重要な要素として存在している。しかし、キリスト教の言葉の扱い方と古事記の言葉の扱い方は実は大きく異なっている。

古事記は、言葉はものに対して名前を与えるもの、つまりあるものに対して存在を認めるものとしての機能は持っていないのだ。古事記の記述の仕方だと、さまざまなものが神によって生み出されているが、その生み出したものに名前をつけたという記述は見られない。ほとんどが例えば「氷蛭子(ひるご)というみ子を生まれました」「海の神をお生みになりました。み名を大綿津見(おほわたつみ)の神と申します」といったようなかたちで書かれていて、キリスト教の聖書のように、誰かが名付けたというような記述の仕方はしていない。

このことは大変に興味深いことである。つまり、キリスト教においては神は様々なものを名付けることによってその名付けたものの性質を決めることができるのであるが、古事記の神は互いに名付けあうというようなことは行わないのである。最初から名前は決まったものとして与えられているのである。この、最初から決まったものとして名前が与えられているという古事記の考え方と、性質を与えるものとしての名前を使役することの出来る人間という考え方のキリスト教と、この違いは日本とキリスト教の国々との大きな違いであるといえよう。