【第2章 多神教の理 F】古事記の神々 神生み

さて国生みが終わると、今度は神生みに入る。海の神、風の神、木の神、山の神など自然や自然現象を象徴する神々を次々と産んでいって、その生まれた神々がそれぞれ分担していってまた別の神を産んでいった。しかし、ギリシャ神話と決定的に違っているのが、これらの自然現象の属性を持った神々の活躍の場が与えられていないということである。古事記においては、自然現象の属性を持った神々については単に「生まれた」という記述のみがあり、実際の神としての活躍の場は人民の支配と統治という点において活躍した神々つまり統治の英雄や天皇にその多くが与えられているのである。

神生みの際に、いざなみの命は最後に産んだ火の神を産んだときに分娩器官を焼かれ、患いの床についてしまう。患いの床でいざなみの命は苦しみ嘔吐し、排泄物を垂れ流しにしてしまう。そして、その嘔吐物や排泄物からも様々な神が生まれていく。つまり、神から分泌されたものはすべて神となっていくのである。この、神の分泌物からまた別の神が生まれていくということは、ある意味で先に述べた共感の法則の一端を担っているといえるだろう。つまり、共感の法則の中の感染の法則「以前一つであったもの、または互いに接触していたものは、分かれた後でも神秘的なつながりが存在する。よって、片方に起った事は、他方にも影響を与える」(『魔術師の饗宴』)が応用されているわけである。『昔話の考古学--山姥と縄文の女神』(吉田敦彦 1992)によれば、日本の各地に伝わる昔話や伝説にはこの「神から分泌されたものは神になる」ということに由来する物語が数多く語られてきたという。「山姥」「山母」「山の神」がその典型例であり、山姥の排泄物が宝物に変わったり、その死体から様々な良いものが生じるという話は各地にあるという。

さて、いざなみの命は火の神を産んだことによって死んでしまう。この神が死んでしまうということはなかなか信じがたい話かも知れないが、神道とギリシャ神話には女の神が死んで夫の神がそれを追いかけるというほとんど同じ形態の話がある。いざなぎの命は死んでしまった妻が恋しくなり、黄泉国(よもつくに)へ行って妻に会おうとする。妻いざなみの命は黄泉国の神と談判して地上に帰ろうとするのだが、いざなぎの命が禁じられていたにもかかわらず黄泉国の宮殿に入って妻いざなみの命の姿を見てしまう。いざなみの命の屍体には蛆虫が一面に群がって異様な音をたてており、いざなぎの命は恐ろしくなって逃げ出してしまう。結局いざなぎの命はいざなみの命を生き返らせることは出来なかったという。この冥界訪問の話はギリシャ神話においてはオルフェウスとユウリデケの愛の物語として語られている。また、女神デメテルとその娘ペルセフォネの地下の国における再会の場面にも似たような場面がある。

このように古事記の神々はとても生々しい神々である。まず「産む」という行為(国生み・神生み)が人間が子を産む行為とほとんど同じものであり、男性器と女性器を一体にすることによって様々なものを産んでいる。また火の神を産んだ後のいざなみの命の描写はとても神とは思えないほど生々しく恐ろしいものである。いざなみの命は苦しみ、嘔吐し、排泄物を垂れ流しにする。キリスト教の神は決してこんなことをしないであろう。神々しさなどはどこかへ吹っ飛んでしまう。

また「国生み」「神生み」以後の様々な神々の所業もとても神のなすものとは思えないほど身勝手でエゴに満ちあふれている。すさのをの命という神は天照大御神との勝負に勝ち誇り、天照大御神の作った田の畦道を壊し、田に水を引く水路を埋め、神殿に脱糞し、馬の生皮を剥ぎ取って神殿に開けた大きな穴から投げ込み機織りをしていた女を殺してしまうなどというおよそ神の行動とは思えないような狼籍を働いている。このような酒に酔っ払っての狼籍ぶりや天照大御神(あまてらすおおみかみ)という太陽の神がすさのをの命に対する怒りから怒って洞穴に隠れてしまって作物が育たなくなってしまうといったような自分勝手な神々の行動はとても一神教の神のイメージからは程遠いものである。

同じ多神教とはいっても、ギリシャ神話と古事記ではその性質はかなり異なっているといえる。しかし、どちらも様々な属性を持った独立した存在によって世界が動いていると考えたという点から象徴の世界観であるといえるのである。