【第4章 陰陽五行の理 G】落とし穴

さて今まで陰陽五行の基本的な考え方を見てきたわけだが、実は陰陽五行には大きな落とし穴がある。おそらく読んでいてその落とし穴には気付いたであろう。つまり、陰陽五行で全てのものが説明できるという証明はなされていないのである。

例えば柊と鰯を飾る迎春呪術と節分の豆まきを陰陽五行で説明した例を挙げたが、その説明の方法とは、あくまでもある一つの事実に対して現在では完全に実証することが不可能な説明を後から付け加えたものに過ぎないとも考えられるのである。陰陽五行説では世界全体を「陰と陽」「木火土金水」で説明できるというが、それで世界を説明できたからといってそれが事実として完全に正しいこととは言えないのである。これは現代の裁判のやり方に類似している。現代の裁判では原告と被告それぞれに弁護士(刑事事件の場合は片方が検察官)がついてそれぞれの正しさを証明しあうというものである。弁護士あるいは検察官の仕事とは法律や命令、規則を駆使して一つの論理を作り上げることなのである。それは人道的あるいは倫理的に常に正しいこととは必ずしも一致しないのである。また、その論理を構成する基礎になっている法律が現実にそぐわないものであった場合にはそれは論理的には正しくとも現実的には正しいとはいえないのである。

このことと同じで、ある一つの事実が陰陽五行で説明できたからといってそれが万物の真理であるとしてしまうのは早計なのである。陰陽五行ほどの詳細な理論を備えた「理(ことわり)」においてはおそらく殆どの物事は説明できるのだろう。そしてそれは陰陽五行の世界の中では紛れもなく「正しい」といえる。しかし、この世界が「木火土金水」という五つの「気」で構成されているということは「説明」は出来ても「実証」は出来ないのである。端的に言うと「象徴的なものを基本としたある現象・事物の説明は、その基本となる象徴の存在自体を、あるいはその説明に関してその象徴を使うということの妥当性を実証しない限り、それは単なるこじつけと見なされる危険性にさらされている」ということになる。陰陽五行では具体的な事物ではなく象徴としての「木火土金水」の存在も、森羅万象の全てにそれを当てはめることの妥当性も実証されてはいないのだ。しかしこのことは他の世界観についてもいえることである。

第一章で扱ったアニミズムやシャーマニズム、精霊や霊魂そして呪術に関してそれぞれ考えてみよう。まず精霊や霊魂はその存在自体が人間の感情という、存在の実証は可能であるがその性質についての完全な実証が不可能なものを基本にしていた。アニミズムはその実証不可能な精霊や霊魂が基礎になっている世界観であり、万人に対する妥当性の実証が不可能なことは言うまでもない。また、シャーマニズムは意図的に精霊や霊魂あるいは「カミ」の存在を示唆し、その性質についての実証を行わないことで不可思議な存在に接触可能なシャーマンの権威を高めることによって構成される社会集団である。万人に対してその接触の方法を実証してしまったら万人がシャーマンになることが可能になるわけであり、シャーマニズムは崩壊するのである。

また、第二章や第三章で扱ったの「神」を中心とした世界観も同じことである。ギリシャ神話や古事記の神々は自然界の属性を象徴する人格神を基本としたものであるが、もとよりその人格神の実在の完全な証明はなされない。というよりも、それを信じている者達にとって、その存在を客観的に実証することに積極的な意味はない。また実在の人物をもとにした英雄鐔が世界観と融合したという側面も強い。

キリスト教の「神」は最初から神が存在することを前提とし、それを中心にして全てのものが考えられている世界観であって、本来神の存在を客観的に実証することなど必要の無いことであった。また、客観的にその実在を証明することは不可能であろう。これらのものと同じで、陰陽五行はその最も重要な要素の「陰陽」と「木火土金水」の実証はなされないのである。

陰陽五行説とは以上のようなものであり、万物を「陰と陽」「木火土金水」に集約されるものとして捉える象徴の世界観の側面の強いものであるといえる。この象徴の世界観が共感の法則と結びついて日本における様々な年中行事や呪術を生み出してきたのである。

また陰陽五行は漢字という文字の中にも一つ一つ意味を持たせ(漢字自体が表意文字であり本来的に意味を持っているものだが)、その働きが連続的に変化していくものであると考えた。つまりは万物が木火土金水の五行に集約されるとはいえその一つ一つの気は決して反発し会うものではなくお互いに関連性のあるものであると考えるのである。この対立するものの中にも調和がありその調和が連続的に変化していくという考え方は陰陽五行だけではなく次章で説明する仏教にも見られる。陰陽五行の思想は記号(漢字)によって世界を説明しようとするという意味において、数学と非常に似通った性質を持っている。しかし、性質が似通っているといっても、現代では記号により世界を説明しようとする手段としては数学(あるいは数式)のほうが有効なものとなっているといえよう。その理由についてはこの章ではなく、第七章で詳しく説明する。