【第2章 多神教の理 C】神々の性質

それでは、これ以後のギリシャ神話「オリンポスの神々の時代」の中で「オリンポスの十二神」と呼ばれる主だった十二人の神々がどのような属性を持っているかを見ていこう。一般的にはこの「オリンポスの神々」の時代をギリシャ神話といっている。

○ゼウス(英語ではジュピター)......天の支配者で雨を降らせたり雷を投げつけたりする。正義を愛し、嘘つきを許さなかった。しかしかなりの浮気者で、幾人も愛人を作り、妻のヘラにはよくそのことで欺かれる。ちなみに、嘘が嫌いと言いながらも自分の浮気をごまかすことはたくさんやっている。

○ポセイドン(英語ではネプチューン)......海の王である。海を支配するだけでなく、地震を起こしたり、地下水を支配したりもする。

○ハデス......地下の国、死者の国の支配者。莫大な富を持っている。厳しくて恐ろしい神であるが、悪い神ではない。

○ヘスチア......囲炉裏やかまどの守り神であり、家庭の守護者である。

○ヘラ......ゼウスの姉妹で、妻。結婚の神で妻の保護者。夫ゼウスの浮気にひどく嫉妬する。

○アレス......戦いの神。

○アテナ......女性であり、自分の国や家庭のための戦いの神。英雄や王侯の保護者であるとともに手芸や農業の守り神でもある。知恵や理性の神でもあり、純潔の化身とされる。

○アポロン......竪琴の名人で芸術の守護者。医術の神、光の神、真理の神でもある。

○アフロディテ(英語ではビーナス)......美と愛の女神。

○ヘルメス......商売や貿易、泥棒の守り神。

○アルテミス......純潔を愛する処女神。気性が激しい。

○ヘパイストス......火と鍛冶の神。

この他にも多くの神々がいるが、ここでは省略する。これらの神々は「オリンポス山」の上で酒をのみ、料理を食べ、歌や音楽を楽しみながら不老不死の楽しい生活を送るものとされた。

ギリシャ神話の神が特徴的なのは、神が非常に人間的で個性的であるということである。また一神教の神と違って多くの過ちを犯すし、その間違いを隠すために更に大きな過ちを犯してしまったりする。例えば、天の神ゼウスは妻ヘラに隠れてよく浮気をする。そして、妻のヘラはそのことに嫉妬し、残酷な復讐を浮気相手にしたりしているのである。ギリシャ神話の神々は決して善と悪という二元論の属性で分けられてしまうような神々ではなく、善いところも悪いところも持っている神々なのである。そしてそれぞれの神々は何らかの人間の属性や自然物・自然現象の属性を司っている。例えばゼウスであれば司っている自然現象の属性としては「雷」、人間の属性としては「正義」「浮気症」があり、アポロンであれば自然現象の属性としては「光」「太陽」、人間の属性としては「芸術」「弓」「医術」がある。様々なものが様々な属性を司り、独立して存在するということからギリシャ神話は「象徴の世界観」であるといえよう。つまりそれぞれの神々が自分の持つ属性を守護することによって人間界を動かしていると考えるわけである。

ここで、第一章を思い出してみよう。精霊とは、人間以外の全てのものが持ちうる自然現象を象徴する意志のことであった。それならば、個々の神々が何らかの自然現象を司っているという点で、ギリシャ神話の神々はアニミズムにおける精霊と同じ性質を有している。だから、それぞれの神々が自分に備わっている属性にふさわしい仕事を果たすことによって、ギリシャ神話の世界は動いているといえるわけである。また、霊魂とは人格を象徴するものであるから、ギリシャ神話の神々はそれぞれ特有の性格を持つということにおいてアニミズムにおける霊魂と同じ性質を有しているといえる。つまり、ギリシャ神話に見られる神々はアニミズムに見られる精霊と霊魂といったような二つの象徴が融合したものであるといえるのである。もっとも、ギリシャ神話を読んでいると、どうしても神々の人格の様々な発現の記述の方に注目してしまい、そこが強調されてしまう為に、自然物や自然現象の属性の象徴として神々を捉えることがなかなか出来ない。つまり本来精霊のうち人間の部分が特化されたものである霊魂だが、ギリシャ神話においては逆に霊魂的な要素つまり人間の形をしたものの中に精霊的な要素の属性が埋め込まれてしまっているのである。精霊つまり自然界の意志としての働きは主に当時の生活に密着した文化や儀式等に現れていたものであると推測され、現在ではなかなか実感しにくいものだからであろう。

しかし、この神話が世界観の源泉として信じられていた頃においては、おそらくは神々の自然現象の属性の側面がかなり重要視されていたと推測される。それは様々な儀式という形で反映されていた筈である。当時の社会の大多数を構成していた民衆にとっては神話自体よりもそれを基礎にしてなされる自然現象に共感する祭儀や儀式が重要視されていた筈である。現代人の感覚によって多神教の神話を理解しようとするのはあまりにも愚かなことであると私は思う。おそらくその頃の人々にとって自然現象の脅威を薄めたりうまく利用することによってよりよく生活していくことは何よりも至上の命題だったのではないだろうか。神話の人間臭さを楽しむなどどいうことは豊かな生活ができて余裕が生じたときに初めてできることである。現代人が学校に通って知識を身に付けて社会でうまく生きていこうとする行為と、神が持つ自然現象の象徴の属性を祭り上げる儀式を行うこととは、同格に扱うことができるのではないだろうか。どちらもより良く生活していこうという行為には変わりないのだから。現代の人々にしろ昔の人々にしろ自らが構築した一種の抜け出しがたい幻想の中で動いているといえるのである。