【第5章 仏教の理 D】十二支縁起/中道

十二支縁起

釈迦は菩提樹の根元で悟りを開いたと言われているが、その菩提樹の根元で考察したといわれる理法に十二支縁起説というものがある。ちなみに、ここでいう十二支とは第四章で出てきた陰陽五行の十二支とは何も関係がないので注意が必要である。

十二支縁起は順観と逆観の二つに分けることができる。順観とは、「無知(無明)によって生活作用(行)があり、生活作用によって識別作用(識)があり、識別作用によって名称と形態(名色)があり、名称と形態によって六つの感受機能(六処)があり、六つの感受機能によって対象との接触(触)があり、対象との接触によって感受作用(受)があり、感受作用によって妄執(愛)があり、妄執によって執着(取)があり、執着によって生存(有)があり、生存によって出生(生)があり、出生によって老いと死(老死)、憂い、悲しみ、苦しみ、嘆き、悩みが生ずる。このようにしてこの世の全ての苦しみが生起する」という、全ての苦しみは「無明」というたった一つのものから生じているとい考えるものである。

これに対し、逆観というのは順観の考え方を逆にとり、「無知(無明)を滅せば生活作用(行)が滅し、生活作用を滅せば識別作用(識)が滅し、識別作用を滅せば名称と形態(名色)が滅し、名称と形態を滅せば六つの感受機能(六処)が滅し、六つの感受機能を滅せば対象との接触(触)が滅し、対象との接触によって感受作用(受)があり、感受作用を滅せば妄執(愛)が滅し、妄執を滅せば執着(取)が滅し、執着を滅せば生存(有)が滅し、生存を滅せば出生(生)が滅し、出生を滅せば老いと死(老死)、憂い、悲しみ、苦しみ、嘆き、悩みが滅する。このようにしてこの世の全ての苦しみが滅する」という、一つのものを滅することによって全てのものを滅することができるという考え方である。

縁起とは本来、「あるものが原因となって別のものが生じる」という意味であり、十二支縁起とは十二の縁起のパターンを考え、その中の「無明(むみょう)」という一つのものを滅することができれば全ての縁起は順送りに消えていくというものである。「無明」というのは無知のことである。だから、無知を滅するつまり知ることができれば全ての苦しみは滅することができるといえる。しかしここでいう「知」は、単に知識があるとか知識がないとかいった問題ではなく、人間に根本的に存在する無知である。知ることによって老・病・死を悩むことがなくなるのだとしたら、「無明」を滅するつまり「知ること」とはまず自分を知り、人間を知り、それを受け入れることであるといえるだろう。釈迦の考え方はギリシャの賢人ソクラテスの考え方にそっくりなのである。

中道

釈迦は「欲情に駆られて官能的な快楽にひたる道」と、「極端な禁欲をして自分のみをいたづらに傷つけ苦しめる禁欲の道」という両極端の道に決して入ってはいけないといい、どちらの極端にも属さない中間の道、つまり中道を進みなさいと教える。

快楽の道も、禁欲の道も本来は自分自身を精神的に満足させるという目的に達するための手段である。端から見て快楽にひたっている人間でも、心の中で快楽に浸る自分自身を嫌がっていたらそれは快楽ではなく苦痛である。また、禁欲することによって精神的に満足する人間がいたらその人間にとって禁欲はある意味での快楽なのである。つまり、禁欲と快楽は一見全く別のものであり正反対のもののように思えるが、どちらも精神的な満足という同じ性質を内包しているのである。しかし、本来は自分を満足させるために行っていた快楽や禁欲は、次第にその本来の目的を忘れるようになり快楽のための快楽、禁欲のための禁欲へと発展していく可能性がある。つまり快楽を求めながら快楽を求めている自分自身に満足せず、禁欲をしていながら禁欲をしている自分自身に満足できないという状態に陥る。そうなると人間は苦しむようになるのである。

釈迦の説いた「中道」とは、おそらく自分自身に満足できないで(受け入れないで)苦しむということを止めなさいということなのだ。中道とは決して両極端の中間の道を、つまり快楽も禁欲も程よく行って良いということではない。両極端のどちらかを進むことによって自分自身を受け入れられなくなることは、何ものにも惑わされない心の平安を目指す修行僧にとっては普通の人間が生老病死を受け入れられずに苦しむのことと全く同じものであり、それが苦しみを生じる原因になると考えたから、両極端の道を進むのを戒めたのである。

「生・老・病・死」「十二支縁起」「中道」という自分を受け入れるという思想に、輪廻転生や業、そこからの解脱という考え方などが混じっていわゆる仏教と呼ばれるものが形成される。「受け入れる」ということが仏教の根本にあるので、前述したようにキリスト教と違って仏教は正統異端の区別をすることなしに様々な分派がなされたのではないだろうか。仏教とは人間を苦しみから救うために人間自身(自分自身)を受け入れる思想なのである。

そしてウパニシャッドの「全てのものは一つのもの」という考え方から、人間自身(自分自身)を受け入れるということは全てのものを受け入れるということにつながる。この意味において仏教は全てのものを受け入れるという究極の抽象の世界観であるといえる。キリスト教が神と悪魔という対立を生み出していったのとは実に対照的である。仏教においては、この世界に存在する限り悪魔のようなものでさえも受け入れなければならないのである。しかし、ある属性を手に入れたとすれば、当然にその属性以外のものは受け入れられなくなる。神と悪魔の例でいえば、神という属性を手に入れたとすれば悪魔という属性を受けいれることは出来なくなるし、逆に悪魔という属性を手に入れたとすれば神という属性は受け入れられなくなる。仏教では、そのどちらも受け入れる方法を考え出そうとした。