【第4章 陰陽五行の理 A】陰陽五行とは

陰陽五行は政治的な権力と関わって日本の文化に大きな影響を与えた、元々は古代中国にあった思想である。中国においては森羅万象全てを説明するものであり、「世界を読み説くための記号の体系」「宇宙を形成する原理、万物を貫いている"普遍的な記号"」(『陰陽道の本ー日本史の闇を貫く秘儀・占術の系譜』)として捉えられていて、八卦(易)・儒教・風水・天文学・医術・神話・哲学・自然科学・呪術など様々な文化と結びついて広まっていった。そこには様々な理論が存在し、その理論の周到さによって人間の未来を見通す為の知識としても珍重され、又、権力と結びついてより大きな発展を遂げた。

古代の中国の「皇帝」の出現と共に「天帝」を中心とする、皇帝は「天」の意志に従うべきでもし君主に徳が欠けていれば天は災いを持ってこれを戒め、天の名(天命)において皇帝の座が交替するという思想が出てきた。この、天の名においての倫理的に裏付けされた統治に、理論的な根拠を付け加えようとする試みから、陰陽五行説は中国の国家の権力によって用いられるようになってくるのである。

日本に陰陽五行理論が入ってきたのは6世紀で、朝鮮半島の百済王国を経由して日本に入ったと言われている。また、大陸からの伝来が僧侶によって行われた為、日本にとっての陰陽道は学問というよりも、宗教的なものとして日本人に伝わってしまい、陰陽道と仏教が不可分のものとして受け入れられてしまった。そしてその後、単に仏教との結びつきだけではなく、国家の政治体制の理論や権威を支えるものとしての役割を担うようになっていった。これは、仏教が国家権力によって受け入れられることとなったことから考えると、当然の結果であるといえる。特に聖徳太子は仏教とともに陰陽道にも大きな関心を持っていて、その政治理念には陰陽道の影響が見られる。例えば、冠位十二階の各階の冠の色に陰陽道の中の五行説の影響が見て取れるのである。また、十七条の憲法の「十七」という数も陰陽道に関連しているという。

更に、国家権力と陰陽道との結びつきは深まってゆく。壬申の乱(672年)の後に国家権力の所属機関として陰陽寮そして占星台が創設されることとなり、陰陽道は日本においては国家権力の独占するところとなったのである。その後、陰陽道は様々な政治的行事、例えば年号の決定や遷都、土木事業などをどのように行うかということを決める根拠として活用されるようになり、国家権力に属する者以外の者が陰陽道を学ぶことは厳しく統制された。例えば、天文に関連する図書や器物(陰陽道は天文学に深く関連している。後述。)を始め陰陽道に関連するものを私的に所有することが禁止され、破ったものは、罰せられた。またそのような陰陽道に関する書物や器物は全て国家が管理し、外部への持ち出しは固く禁じられていたという。

国家によって官制として組織づけられた陰陽道の組織を見てみると、中国の組織が天文・暦を研究する機関に重きが置かれていたのに比べ、日本では陰陽道を基本にした占い(吉凶卜占)の機関に重きが置かれていたようだ。これは、それまでに行っていた日本古来の神(古事記の神々や氏神)を基本とした儀式作法に共通するものがあったのではないかと推測されている。また、陰陽道自体は国家の独占下に置かれているものの、その理論を基本とした数々の習慣も生み出されていった。「方違え(かたたがえ)」「物忌み(ものいみ)」といったものはその例である。

さて、その国家管理の下に置かれた陰陽道を用いて活躍したことで有名なのが『大鏡』『今昔物語集』などに登場する安部晴明である。彼が式神と呼ばれる主人である陰陽師(おんみょうじ)に仕える鬼神を使役したりする話は有名である。しかし、この章ではそういった呪術的側面や国家の民衆統治手段としての陰陽道よりも「理(ことわり)」としての、つまり理論体系としての陰陽五行説を見ていく。元々の陰陽五行説は陰陽説と五行説という別々に成立・発展した思想が一緒になったものである。それでは、その思想がそれぞれどのようなものかを見ていこう。