【第6章 言語の理 C】愛の告白の比較

言葉の使い方に見る文化の特性

文字は実際にはそれを配列することによって何かを意味を表し、それを表現する手段として使われる。表音文字を主体にした西欧と表意文字を主体にした日本との表現の仕方の違いを、自分の感情を表現する手段としての「愛の告白の詩」によって見ていこう。

西欧の「愛の告白の詩」

表音文字であるアルファベットを使った言語による愛の告白を考えてみよう。ここでは、個人的な趣味からフランスの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」に登場する愛の告白の詩を引用しようと思う。本来は原文のフランス語のまま引用するべきであるが、膨大な量になるであろうし、自分のフランス語の能力を考えてもそれは妥当ではないので、日本語に訳した形で引用する。それでもこの論文においては引用の目的は達することが出来る。しかし厳密に考えるなら原文をそのまま当たる方がよいであろう。

場面は主人公の詩人シラノ・ド・ベルジュラックが従兄弟のロクサアヌに愛を告白する場面である。

「ああ!恋の箙(えびら)や箭(や)や松明や、そんな紋切型はさらりと抛(な)げ出し、……生き生きとした現実の世界に一思いに飛んでいけたなら!可愛らしい黄金の指貫を杯にして、一滴また一滴と味も無いリニョンの川水を掬(く)むよりも、寧ろ恋の大河のあふるる水をぐっと傾けて、心の底まで霑(うるお)すことが出来たなら、ああ、どんなに!」 

「どんな、どんな、どんな言葉でも胸に浮び次第、叢(むらが)る語り草を、かがり束(つか)ねる暇も惜しい、可愛いあなたに叩きつけます。私はあなたを恋しているのです、胸も張り裂けんばかりです、恋している、気も狂うばかりです、もうどうすることも出来ません、実に千万無量です。胸に宿るあなたの名は、鈴の音にも似ています。ロクサアヌ。私の胸は休む暇もなくときめいている。その度毎に休む間もなく、想いの鈴も激しつつ、あなたの名を響かせる!あなたの事を考えれば、あらゆる想い出が湧いて来るのです。私はあなたの凡てを愛した。忘れもせぬ去年の或る日、そうだ五月十二日です。朝のそぞろ歩きにと、あなたは新しく髪を結い直して居られたでしょう!日輪を見詰めすぎると何を見ても赤い円光がつき纏うように、光り輝くあなたの髪を見詰めた私は、溢(あふ)れるばかりに目を射ったその光から離れた時、目はくらんで何を見てもブロンドの斑点(しみ)が滲んでいたのです!」

読んでいてこちらが恥ずかしくなるような文章だが、要するに、シラノは自分の恋情を表現し相手に伝えるのに、多くの比喩を使い、何度も「愛している」「恋している」という言葉を使っている。このことから自分の感情を様々な言葉によって区切り、限定し、相手に解釈する余地を過大に与えて誤解を生まないようにし、より明確に相手方に自分の感情を伝えようという姿勢が伺える。この姿勢はアルファベットつまり表音文字の特性と、キリスト教が持っている言葉の特性によるものと考えられる。

表音文字は発音のみを表す文字で文字自体には何の意味も持っておらず、その発音の人為的な組み合わせによって初めて意味を持たせることが出来るものである。このことから、表音文字を使って何かを表現し相手に伝達する際には、自分で表音文字を組み合わせる事によって、意味を持たない文字の集合に意味を持たせ、それを相手方に伝達する必要がある。

また、キリスト教の世界観においては言葉は世界を創り出し、世界を解釈する前提となるものであった。神の言葉によって全ての存在が生まれ、人間は神によって言葉を行使する資格を与えられ、禁断の木の実を食べて世界を解釈する力を得るということにより、自由に言葉を操れるようになった。このことから表音文字を使用し、キリスト教の世界観の中に生きる人間にとって言葉をたくさん使うことによって世界を区切っていくということは人間が自分の存在を証明し自分自身を表現する最も有効な方法なのではないだろうか。

日本の「愛の告白」

表意文字を主体とした日本の愛の告白の方法を考えてみよう。日本の「愛の告白」の方法で最も特徴的なのは、日本古来の「詩」の形態である短歌による告白である。

まずは短歌から見ていこう。次に挙げたのは『百人一首』のなかの恋に関する短歌である。「掛詞」「序詞」の理解に支障の無いように、全て平仮名表記にした。

「かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしもしらじな もゆるおもひを」

「せをはやみ いわにせかるる たきがわの われてもすゑに あわむとぞおもう」

「かくとだに…」の歌は『後拾遺集』の中の藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)によるもので、「こんなふうにあなたのことを想っていると言うこともできないのだから、私の燃えるような想いはあなたには伝わらないだろう」といった内容の歌である。「えやはいふ」「いぶきのさしもぐさ」「さしもしらじな」という序詞・掛詞で表現を展開させ、「おもひ」という言葉のなかの「火」は燃えるような想いの「火」つまり情熱の「火」につながる縁語である。また、この「火」という縁語は「さしも草」という言葉の縁語でもある。

「いぶき」というのは栃木県の伊吹山を指していて、そこはお灸に使うモグサの産地でもある。そこから「いぶきのさしもぐさ」となる。またそこから「さしもしらじな」という言葉につながり、「もぐさ(モグサ)」という言葉から「もゆるおもひ(燃える想い)」という言葉につながり、さらに「おもひ」の「火」が「もゆる(燃える)」という言葉につながっている。

「せをはやみ…」の歌は『詞花集』の中の祟徳院(すとくいん)によるもので、「浅瀬の流れが速く、岩によって割かれてしまう滝川の流れのように、我々二人も今は人に仲をさかれてしまっているが将来は必ず一緒になろう」という内容の熱烈な恋の歌である。

恋をしている二人の仲を「滝川」に喩え、滝川の流れは一時は岩によって割かれてしまっても必ず合流するのもであるということから、自分たち二人の仲もきっと元に戻るであろうという願いを込めている。また、「滝川」に喩えられていることから、二人の恋情が激しいものであることが伺える。また「岩」は滝川の水が岩を避けて流れることが出来ないことから、二人の仲をじゃまする抗しがたい力の強さを象徴している。

これらのことから解かるのは、和歌が「掛詞」「序詞」「縁語」と多用するものであるということである。「掛詞」「序詞」「縁語」は発音(表音文字の特性)と意味(表意文字の特性)という象徴と抽象の両方の特性をがそれぞれ結びつけて使うものであり、個々の言葉が象徴するものを「共感」によって結びつけるものである。和歌は漢字と平仮名・カタカナという表音文字と表意文字の混在する日本語という言語の特性がよく現れている表現形態なのである。

しかし、発音という表音文字(抽象)の形態のものでも、それは単に同じ発音を持つというだけ結びつけられているというわけではなく、同じ発音を持つものの意味(象徴)を結びつけることが重要という点において、それは象徴同士を結びつける象徴の世界観によるものだということが出来る。だからこそ平仮名という表音文字が使われていても象徴の世界観の産物である共感の法則が成り立つのである。

日本の「愛の告白の詩」である短歌は意味の上だけではなく発音においても同時に複数の意味を持つ言葉を並べることが出来るのであって、このことから短歌は短い言葉で実にたくさんの意味をを内包させることが出来るのである。短歌は詠み人が複数の意味(象徴)を結びつけることによって短歌という新しい別の象徴(イメージ)を造り出し、それを鑑賞する人間がその複数の象徴の融合によって形成された新たな象徴(イメージ)を感じ取るものなのである。つまり、ある意味で短歌で表現されている事柄の解釈というのはそれを受け取る側の象徴の融合を感じ取る能力に左右される。逆にいえば、象徴の融合を感じ取る能力が鑑賞する相手に期待されているわけである。だから短歌を鑑賞する側の人間は単に短歌に使われている単語の意味を知っているだけでは駄目なのである。この、相手に意味の解釈を過大に期待するということは表音文字であるアルファベットを使った西洋の表現形態である詩と大きく異なるところだ。前述のように、西洋の詩はどちらかといえば相手に解釈の余地を許さないほど明確に自分の感情を区切っていくものなのである。

しかしもちろん、表音文字を使った西洋の詩が相手に全く解釈の余地を許さないというわけではない。そのことについては後述する。