【第1章 原始の理 F】 呪術の体系

フレイザーの『金枝篇』によると、呪術の理論の基本法則はただ一つであるという。それは「共感の法則」である。これは「接触したもの同士には、何らかの相互作用(共感)がある」というものであり、全ての呪術の理論はこの法則の応用であると言う。以下に、「共感の法則」の応用法則を列挙してみる。

図説 金枝篇

金枝篇』自体は結構難解な部分があります。図説がついていると格段に読みやすくなるので、図説付きのものを読むことをお勧めします。

・感染の法則

「以前一つであったもの、または互いに接触していたものは、別れた後でも神秘的なつながりが存在する。よって、片方に起った事は、他方にも影響を与える。」(『魔術師の饗宴 』)

魔術師の饗宴 (新紀元文庫)

中二病的なファンタジー世界の産物と思われがちな「魔術」の世界を網羅。フレイザーの『金枝篇』が取り上げられるなど、学術的視点もしっかり持ち合わせた書籍です。

例えばニューギニア沖のトゥムレオ島のパプア族は、止血に使った血のついた布片を注意ぶかく海へ捨てる。もし敵がこれを拾えば、それを利用して呪術的に彼を害するおそれがあるからというのがその理由である。また、口の中を傷つけて血が止まらなくなった男が、その地にキリスト教を広めに来た西洋人の宣教師の手当を受けるためやって来たことがあったが、その妻は苦心してその血を集め、それを残らず海中に棄ててしまったのという。この他にも人とその衣類の間に呪術的共感が存していて、衣類に対して加えられることは、その衣類の主が遙か遠方にあったとしても、すべてその身に感じられるという信仰がある。ヴィクトリアのウォジョバルク部族では、呪術師は他人の使っているカンガルーの敷物を手に入れ、それを火にかけてゆっくりゆっくり焙る。そうすればその持ち主は病気にかかってしまう。もし呪術師がこの呪いを解こうと思えば、火を洗い去るために敷物を水に浸すことを命じて病人の友人に敷物を返してやる。そうすれば病人の熱はさめ、病気は治ってしまうという(フレイザー『金枝篇』岩波文庫)。

・類似の法則

「似たものは似たものを生む(意味空間における接触)」(『魔術師の饗宴』)

例えばエスキモーの子供達は綾とり遊びをすることを禁じられているが、これは綾とり遊びをすると大人になってから、綾とり遊びをするときに指に糸がからまると同じように、鯨をとるとき銛綱が漁夫の指にからまると信じられているからである。またカルパチア山脈のフヅル人では、猟師の妻は夫の食事をしている間は、糸を紡いではならない事になっているが、これはこの禁にそむけば、獲物は身を転じて紡錘のようにぐるぐるまわりをし、これを仕止めることができないと信じられているからであるという(『金枝篇 (1)』)。

さらに「類似の法則」はつぎの3つの法則へと発展する。

・「何かがある行動をすれば、似たものも同様の事をする」(『魔術師の饗宴』)

例えば中部オーストラリアの不毛地帯に住むワラムンガ族の白いバタンインコ・トーテムの首長は、その鳥の絵をささげ、荒々しい叫び声をまねることによって、白いバタンインコの増殖をはかり、アルンタ族では、ある昆虫の幼虫トーテムの人々は、その部族内の他の成員たちが食用にする幼虫を増殖させるため、呪術儀式を執り行う。それは成熟したその昆虫が蛹からぬけ出すことを表す無言劇であり、まずその幼虫の蛹の殻になぞらえて、木の枝でもって細長い室がつくられ、この室の中にその幼虫トーテムに属する一団の人々が入って坐り昆虫成熟の各過程を歌う。そしてその後に身を屈めて外へ出ながら蛹から虫が出ていると歌う。そのことによって幼虫を沢山に殖やすことができると信じているのであるという(『金枝篇 (1)』)。

・「何かに起ることは、似たものにも起る」(『魔術師の饗宴』)

例えば北アメリカのインディアンは、砂、灰、粘土などの上に人物の像を描いたり、ある物体をその人の身体と想定しておいて、尖った棒切れでそれを突き刺したり、その他の方法でそれに害を加えたりする。そうすることによってそれが表す実際の人物自身の上に全く同じ危害を加えることができると信じこんでいるという。またオジブウェイ・インディアンが誰かに危害を加えようとする際には、狙う人物を表す小さな木像を彫り、頭部または心臓部に針を打ちこんだり矢を射こんだりする。狙いをつけた人物が全く同時に、針の刺された箇所や矢の当たったところに相当する肉体の部分に、たちまち激痛を起こすと信じているのであるという(『金枝篇 (1)』)。

日本においてこの法則の典型的なものはワラ人形であるといえよう。

・「似た者同士は、性質を共有する」(『魔術師の饗宴』)

例えば中国には町の運勢がその町の形状に大きく左右されるという信仰がある。昔、鯉の形をした町が魚網の形をした町にたびたび掠奪を受けて困っていた。つまり、これらの町は鯉と魚網に共感しており、鯉は魚網によって捕獲されることから鯉の形をした街が魚網の形をした街に掠奪を受けるのは当然のことと見られていたわけである。そこで鯉の形をした町は略奪を防ぐ為に町の中に二つの高い塔を建てて、あたかも魚網が鯉を捕らえる前に高い塔に絡ませることでそれを妨害するかのようにしたところ、掠奪が止んだと記されているという(『金枝篇 (1)』)。

現在においては「共感の法則」は科学的根拠が見出されていないので、だいたいにおいて否定される。ただし、「共感の法則」は決して消滅してしまったわけではなく、様々なところで生き残っている。野球チームのチームキャラクターに「虎」や「鷹」などの、一般に強そうなイメージを持つ動物を持ってくることなどはその良い例である。強い動物のキャラクターをトレードマークとして「共感の法則」によりチームのイメージをより強いものにするのである。つまり共感の法則を基本とした呪術は世界を構成する様々な属性の象徴(実体)に姿を似せることによってその象徴(実体)の持つ属性の力を使役しようとするものなのである。だから共感の法則はあくまでも象徴の世界観の中でのみ通用するものであるということがいえる。共感の法則はあらかじめなんらかの属性を持ったものが複数存在することによってのみ成立するのである。

「共感の法則」の致命的な欠点は、「接触したもの同士には、何らかの相互作用(共感)がある」ということしかわかっていないということだ。つまり、「共感の法則」自体についての科学的な説明はなされていないのだ。まずは覆すことの出来ない大前提として「共感の法則」が存在し、古代人にとっては全てはその中の範囲でしか動いていなかったのである。呪術とは「声がどのように伝わっていくか分からなくても、会話は出来る」ように、「なぜ共感の法則が成り立つのかは分からなくても呪術は出来る」というような性質のものであり、「いまだ科学ではなく技術の段階に留まっている」(『魔術師の饗宴』)のである。つまり、呪術自体の原理つまり共感の法則の根拠は未だ解明されてはいないのである。だから「共感の法則」自体には科学的根拠はないが、「共感の法則」を使う人間にとっては十分な効果が得られる。つまり「共感の法則」とはライオンの恰好や精霊の踊りと行った具体的な表現そのものに本質があるのではなく、個々の具体的表現の裏に隠された属性や象徴への「共感」という人間の意志に関わるところにその本質があるのである。

以上のことから呪術というのは、世界を動かしている精霊や霊魂に対して原理の解明されていない共感の法則という大前提をうまく使いこなし大いなる力であり、シャーマニズムとは一般的に未知の法則を自らの力として扱えることの出来る「シャーマン」を崇拝することによって世界観を現実社会に反映させようとする人間たちのもとで機能していた社会の一形態であるといえる。

その後時代が移っていくにつれて、共感呪術は衰退していって表立ってのものとしては祭儀や儀式などにその面影をとどめていくだけになっていく。しかし、「共感の法則」自体は、単に技術だけでなく、その原理についてをも考えるようになった後の時代になっても消えることはなく、現代も様々な形でその面影を残しているのである。