【第3章 一神教の理 E】イスラム教

一神教として知られているもので、キリスト教とともに「世界の三大宗教」の一つとして数えられるイスラム教がある。イスラム教は日本人にとってはなじみが薄く、えてして偏見の目を持って見られてしまうことも多い。ここで、一神教を西欧的世界観の反映であるキリスト教の視点のみから見るという危険を避けるために、イスラム教についても少し触れてみようと思う。以下の文章のほとんどは『イスラームの心』(中公新書/黒田壽郎)を参考にしている。

イスラム教はユダヤ教、キリスト教とともにまた「世界の三大啓示宗教」とも呼ばれる。この三つの宗教の特性は、それぞれがヤハウェ(ユダヤ教)、エホバ(キリスト教)、アッラー(イスラム教)と呼び名は異なっているが同じ唯一神を信仰しているという点で姉妹関係にある。そして、それぞれが信仰している唯一神から特定の人物(預言者)に対して啓示がなされ、その預言者が人々にたいしてその言葉を伝えるという形で信仰が始まった。

ここで、「予言者」と「預言者」の違いについて少し触れておこう。「予言者」とは未来に起こることをなんらかの手段によって予告する人間のことである。これに対し「預言者」とは、未来を予告する人間ではなく、神の言葉を人々に伝えるために神から使わされた人間、あるいはその為に神から選ばれた人間を指す。このことを踏まえて、一神教の神の信仰において特に重要な役割を果たした預言者についてみていこう。

中近東には古来より、一連の預言者の伝統があった。人類の祖先アダムを始めとして数多くの預言者が存在するが、彼らは全て同じ神からその時代、状況にふさわしい啓示を受け、人々に対してそれを伝えてきた。その数多くの預言者の中で、ここでは特にアブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマド、の四人の果たした役割を見ていこう。アブラハムは、神が唯一絶対のものであるということを啓示した。彼によって神が宇宙の創造者であり、そのような神だけが信仰に値するものであるということが人々の間に浸透していった。モーゼはユダヤ教の預言者である。彼は神の唯一性を認め神を信仰するとともに、神の定めた律法をも人々が尊守するようにとの啓示を受けた。つまり、信者は形而上学的な真理だけでなく現実社会においての具体的な行動規範においても神の真理を採用し、それを受け入れるようになったのである。ただし、彼らが受け入れた律法はあくまでもユダヤ民族の中でしか通用しないものであったので、そのことからユダヤの民を他の民と区別する思想(選民思想)に発展し、ユダヤ教は人類全体に通用するような普遍宗教ではなく、ユダヤの民にのみ通用する民族宗教となったのである。

ちなみに、キリスト教成立のきっかけである預言者イエスはユダヤ教の選民思想に凝り固まった独善的な性格を打破することに努めた。神が唯一絶対で神聖不可侵であるなら、その力は特定の民族だけでなく人類全体に及ぶべきだと考えたわけである。ここからアガペーつまり人類全体への普遍的「愛」を基礎としたキリスト教がはじまった。しかし、キリストが死んでしまうと彼にしたがっていた人々によってキリストは預言者つまり神の言葉の受け取り手という立場を超えて格上げされてしまい、神と同一のものとして扱われるようになる。そして神と子と精霊が同一のものであるという三位一体論に発展していく訳である。本来は一介の人間に過ぎない人物が神と同一のものとして解釈されることによって、神の超越性は不透明なものになってしまったと云えるだろう。逆に人間にとっては神はより身近な存在になったと云えるかも知れない。

そして最後にムハンマドである。ムハンマドはイスラム教の成立のきっかけを作った人物であるが、イエスのように神格化されることは決してなかった。また、イエスと違ってムハンマドは自分自身で軍勢を率いて戦うことによってイスラム教を広めている。そして彼が二十年間にわたってアッラーの神から受け取った啓示が「コーラン」として結集されたのである。

イスラム教においては神はアッラー唯一人であり、ほかの何者もアッラーに比肩するものではない。また、アッラーの姿を絵画で描き表したり偶像などで象ることは唯一神アッラーによって禁じられている。これはキリスト教との大きな違いである。だから、イスラム教の国々においては宗教美術の産物としての絵画や彫刻といったものはそれほど発達しないのである。キリスト教とイスラム教の違いはほかにもたくさんあるが、この点が最も顕著である。キリスト教が神の性質に対して絵画や偶像といった具体的なものを通して人間が接触を試みることが許されているのに対して、イスラム教においては神は具体的なものを通してはいっさい接触を許されていないのである。この、キリスト教とは異なった神に具体的なものを通して触れることができないというところがイスラム教圏で科学的思想の発達がなされなかった一つの要因ではないだろうか。

このように、同じ一神教の中でもイスラム教とキリスト教の違いを見てみたときにキリスト教がいかに人間にとって都合の良い宗教であるかがわかる。神は人間を、そして全てを超越した存在でありながら神が人間に近い形での属性を備えていることから、キリスト教においては人間が神に「共感する」ことが可能なのである。このことは後に人間に大きな力をもたらすこととなるのである。