【第5章 仏教の理 E】象徴と抽象

象徴と抽象

人間は生きている限り「我」という自我意識から離れていることは出来ない。そして自我意識がある限り、人間はあらゆるものに執着する。しかし、一切の現象はすべて変化していく(諸行無常)からいかなる存在も「我」という普遍の実体を持つものではない(諸法無我)。そういった中で自分のみが不変であると考え、あるいは不変であることを様々なものに求めようとするから苦しみが生じるのであり、苦しみから逃れる為には「我」は捨てるべきであると考えるのである(無我説)。不変のものを求めたがる「我」を捨てて全てのものが変化していくのを許容しなければ決して苦しみは消えることがない。ここでも「受け入れること」が重要な要素となってきている。そしてもう一つ、「捨てること」も重要な要素になってきている。受け入れるために捨てること。これがキーワードである。

これはどういうことであろうか。自分を受け入れるために自分を捨てるとは。一見矛盾するこの考え方も、象徴の世界観と抽象の世界観の分類のもとでは説明づけることが出来る。

象徴の世界観は個々の事物に存在する属性を絶対のものとしてみる世界観であった。つまりこの世界の全てのものをなんらかの属性で区切っていくものである。区切るということはその区切ったものとそうでないものの差別化をする行為であり、差別によっては全てを受け入れることは出来ない。自我というのも結局は自分の象徴なのだ。この自我という象徴に依存している限り、自分は他の人間とは区別された特別なものとして捉えられる。そしてこれゆえに、差別と苦しみが生まれてくるのである。

これに対し抽象の世界観は全てのものに共通する性質を求めていく世界観である。全てのものに共通するのだから、この性質を知るということは全てを知ることである。しかし、この性質がどんなものであってもこれを受け入れられなければ人間はやはり苦しむのである。つまり全てを受け入れるということは、抽象の世界観を受け入れよということであり、全てを捨てよというのは象徴の世界観を捨てよということなのだ。以上のことから、釈迦の教えは抽象の世界観を究極的に追究したものだといえるのである。