【第1章 原始の理 B】 精霊

原始社会の人間が食料にしようと獲物を探していて、日の光さえ遮ってしまうようなうっそうとした森の中へ入り込んでしまう。どこを見回しても木が生い茂っている。緑色と茶色の世界の中では、自分だけが周りと異なった色彩を持っているのではないか?木々の息遣いが聞こえてくる...。

そんな中での木々のざわめきは彼に、森の中に自分の理解を超えた大いなる意志が宿っていると感じさせる。そして彼は生活しているうちに森だけではなく、風や泉、大地など自分の生活に関わっているものの全てに人間の意志の力では制御し切れないものを感じ、そこに大いなる力の存在を認める。

その「大いなる力」は本来は人間が自分の感情(恐怖や畏敬の念)を個々の自然物や自然現象に転化したもの(参考『アニミズム時代』)に過ぎない。人間が「感じた」その大いなる力はあくまでも人間の意識や感情によって創り出されたものだ。本来は何の実体もない。しかし人間の感情はそれを実在のものとして認識するのである。

アニミズム時代

表紙、絶対こんな画像じゃないはずですが。。。本論文で使用した書籍です。

ここでひとつ疑問が解決する。その疑問とは、アニミズムの「生物・無生物を問わず広く自然界に精霊・霊魂の存在を認める」という定義の中の「無生物」の部分である。生物に精霊や霊魂が宿っているということはおそらく(少なくとも頭では)理解できる。しかし、アニミズムではなぜ精霊や霊魂は生命の無い無生物にも宿るといえるのか。

その答えが人間の感情なのである。つまり、精霊や霊魂というものははあくまでも人間の感情があってこそ初めて存在が可能になるものなのである。アニミズムにおいて重要なのは、実際に草や木や、岩や大地に精霊や霊魂が宿っているという事実ではなく、その文化に属する人間、あるいは単に個人が精霊や霊魂が存在すると思うこと(あるいは信じること)なのである。ここを勘違いしてはならない。だから無生物にも精霊は存在しうるのである。アニミズムの根本は精霊や霊魂の実在ではない。人間の感情なのである。

人間の感情によって生み出された精霊や霊魂という実存は、人間の感情とは別個の、独立した様々な自然現象の属性を象徴するものとして捉えられるようになる。人間には、感覚器官で受け取った情報を個別に分類して認識する能力がある。だから人間は、自分(達)が普段接している自然環境を分類しようとする。そしてその分類に応じて自分(達)が感じ取った自然環境の実存(精霊・霊魂)を当てはめていくのである。

季刊誌『怪 (第1号)』/広島大学助教授山田陽一氏のレポートを参考にして、説明を進めてみよう。精霊を中心とした世界観を、パプア・ニューギニアのせピック丘陵に住むワヘイという人口四百人足らずの小さな集団を例に挙げて考えてみることにする。

季刊誌 怪 (第1号)

京極夏彦の小説が大ヒットし、妖怪や怪異がちょっとしたブームになった頃発売されていた季刊誌。興味深い内容が満載です。

ワヘイ達は、六種類の精霊に囲まれて生活している。それは精霊の棲む場所によって分類されておりその力の強い順番に並べると、「サガイム」と呼ばれる川底の岩や竹に棲む精霊、「ウィングフム」と呼ばれる岩穴に棲む精霊、「ウングフォトゥム」と呼ばれる川沿いの大木に棲む精霊、「シュウォバニガトゥム」と呼ばれる山の大木に棲む精霊、「マヤモトゥム」と呼ばれる湖沼に棲む精霊、「ソングム」と呼ばれる川の入り江に棲む精霊の六種類であり、その全てが精霊の棲み処の近くを通りかかった人間を襲ったり、精霊の棲み処を穢した人間を襲ったりする人間にとっては害をなす邪悪な存在とされている。そのような人間に災厄をもたらす存在をワヘイは「ヤボスガス」と呼んでいる。

ワヘイの精霊の分類の仕方は大変に興味深い。まず、川底の岩や竹に棲む「サガイム」であるが、何故「川底の岩」と「竹」がその棲み処とされているのだろうか。私の感覚でいうと、「川底の岩」と「竹」の間にはそれほど強い関連性が無いように思える。しかも、わざわざ「川底の」岩としているのはなぜだろうか。また、川沿いの大木に棲む「ウングフォトゥム」と山の大木に棲む「シュウォバニガトゥム」であるが、何故「川沿いの大木」と「山の大木」というように分類されているのか。小さくて低い木よりも大きくて太い木に何かが棲んでいるという感覚は、日本の神社にある神木の多くが大木であることを考えれば容易に理解できるが、それでは何故、「川沿い」と「山」とに分ける必要があるのだろうか。又、川底の岩と竹に棲む「サガイム」と川の入り江に棲む「ソングム」であるが、それでは川の入り江の川底に棲んでいる精霊はどちらに分類されるのだろうか。

しかし、この分類を日本人あるいは西欧人が理解できないからといって非合理的なもの、としてしまうのは早計である。確かに日本人や西欧人には理解できない分類方法かもしれない。しかし、おそらくこの六種類に分類された場所(川底と竹、岩穴、川沿いの大木、山の大木、湖沼、川の入り江)は、ワヘイの人間にとっては日常生活に現実のものとして迫ってくる場所なのだ。ワヘイの人々が暮らしていく中で、自分たちを取り巻く環境を分類するとおそらくはこの六種類になり、そのそれぞれの場所でそれぞれ別の何かを感じとったのであろう。

つまり、「精霊」という言葉はそれぞれの文化によって全く違ったものを指すのである。だから単にたった一言の「精霊」という言葉から全ての「精霊」を理解しようとするのは危険である。また、「精霊」という言葉を日本文化の中のそれに相当するものに準じて理解することも間違いを犯しやすい。もっとも、我々が「精霊」という言葉から感じ取れるイメージを、自分達の身近なものに置き換えて漠然と理解することしかできないのはまぎれもない事実ではあるが...。

さて、人間の感情をその基礎としているために本来は実体の無い精霊であるが、最終的には呪術や儀式を行う際に便宜上の実体を与えられるようになる。それが実体としての「精霊」である。

人間の感情の自然環境への転化に過ぎなかった精霊であるが、それは畏敬の対象へと変化する。何故なら人間が自然環境から感じた威圧感は人間に理解できないものだからである。自然は人間を包み込み、圧倒的な力で人間を翻弄する。人類に文化の萌芽が見え始めた頃、つまり人間が自分の思い通りに操ることの出来る範囲が狭かった段階では、人間は自然を恐れ、自然が人間を排除するのではなく、優しく包み込んでくれるように願ったはずである。

例えば先ほど引用したパプアニューギニアのワヘイ達は、いくつかの精霊について、そのイメージを木彫りの像や盾というかたちで表現している。例えば彼らは水辺に行って洗い物をしたり水浴びをするときに先ほど例に挙げた川の入り江に住む精霊であるソングムに襲われないように、ソングムのイメージを具象化した木彫りを創作するという。その木彫りは「あごのとがった長い横顔、まっすぐに伸びた背骨とそこから突き出して折れ曲がった手足、手足にはさまれた大きな肝臓、そして背骨からつながった長い尻尾からなるソングク(筆者注:男のソングム)の側面立像」であり、ワヘイの男たちによって頻繁に作成される。男たちは、この木彫りを作って持っているかぎり、ソングムが人間に危害を加えることはなくなると信じているという。

これは精霊が目に見える形に具象化されたもっとも良い例であろう。この時点において、精霊は単なる自然環境に対する感情の転化というものから、実体を獲得した実存在となる。そして実体の無かったものが実体を獲得したことにより、精霊は更にその存在感を増すのである。

ワヘイ達のこうした木彫りの像や盾に表現された精霊の姿形は、決して固定されたものではなく、個人的なイメージに基づいて創作されたかたちや、あるいは周囲のどこからか伝わってきたかたちが、ワヘイたちの共感をえて作り継がれるようになったものであるという。つまり、精霊の獲得した実体というものはあくまでも便宜上のものであって、精霊の実体を表現しているものの形がそのまま実際に実在する精霊としての形であるとはいえないのである。このことを勘違いしている人間が割と多いように思える。