【第1章 原始の理 C】 妖怪

精霊と同じく自然の中に住んでいる実体の無いものの一つに、私は「妖怪」を挙げたいと思う。というよりも、厳密な定義をしない限り、一般的にはこの「精霊」と「妖怪」という言葉はほとんど同じものを指していると捉えられているだろう。例を挙げて説明してみよう。例えば「川赤子」と呼ばれる妖怪がいる。これは沼や池の近くを人間が通ると赤ん坊の泣き声がして、もしかして赤ん坊でも溺れているのではないかと思って助けようと声のする方向に行ってみると今度は別の方向から赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、あちこち探し回るが結局何も見つけられないという現象である。

水木しげるの妖怪文庫 (1)』にはこの「川赤子」の説明とともに水木しげる氏の描いた挿絵が載っている(挿絵参照 筆者注:原文には挿し絵が存在しましたが、著作権の関係上、インターネット上では掲載を控えさせていただきます)。本文を読み挿絵を見た人間で、もしかしたら「川の中に赤ん坊がいるわけないじゃないか。こんなもの、蛙か何かの鳴き声の聞き間違いに決まっている。川赤子などいるわけがない。」と思う人間がいるかもしれない。この人はある意味で正しく、ある意味で間違っている。どういうことかというと、川の中に赤ん坊がいるわけがないということは少なくとも常識としては正しいし、赤ん坊の泣き声が蛙の声の聞き間違いだということもおおいに可能性のあることではあるが、しかし「川赤子」というのはあくまでも、川の中で赤ん坊のような泣き声がし、探し回っても誰もいないという「現象」に付けられた名前なのであって、例えばそれは十月ごろの暖かい晴天の日を「小春日和」というようなものなのである。「川赤子」とは決して川に棲んでいる赤ん坊に付けられた名前ではない。だから「川赤子など存在しない」ということはほとんど「小春日和なんて単に陽気のよい秋の天気のことではないか。そんなもの単に秋の晴れた日と言えばいい。」と言うことに近いのである。つまり、馬鹿馬鹿しい。川の近くで赤ん坊の泣き声に似た声がするという現象がある限り、「川赤子」は存在し続けるのである。

水木しげるの妖怪文庫 (1)

日本の妖怪研究と妖怪美術の世界に大きな業績を残した、水木しげる氏の妖怪解説文庫本。美術的にも博物学的にも貴重な資料です。

それを水木しげる氏の描いた挿絵をそのままの形で信じ込んで何かと偉そうに文句をつける者こそ、水木しげる氏が挿絵という形で表現した川赤子の「妖怪」という外見に惑わされているといえよう。実際、妖怪というのは精霊や霊魂と同じく人間の感受性の問題なのである。だから水木氏の描いた「川赤子」の挿絵はあくまでも水木氏が「川赤子」という現象を自分の感性に従って捉えたときのイメージであって、「川赤子」の実体が水木氏の挿絵の通りである必要はないし、また、本来的に「川赤子」という現象に実体があるものかどうかも疑わしいのである。澁澤龍彦氏は『黄金時代』(河出文庫 1986)の中で、妖怪とは、「人間がもっぱら想像力の働きによって創り出した、一個のイメージとしての形を具えた、自然の中にその類似物を見出し得ない生き物」と定義しているが、私もこの定義に賛成である。だから妖怪あるいは精霊というのは自然科学的に存在を与えられるべきものではなく、人文的に存在を与えられているものであるといえよう。

黄金時代 澁澤龍彦コレクション

1959年に出版したマルキド・サドの著作『悪徳の栄え・続』が物議を醸し出した澁澤龍彦の著作。全共闘世代ならではの強烈さを感じます。

さて畏敬の対象が実体を獲得すると、それは大きな存在感を持つようになる。更に日常生活に密着した、あるいは文化的な裏づけを持った欠かせない実在としての性格を持つようになる。そして精霊という実在は更に発展し、個々の自然現象の属性の象徴としてだけでなく、象徴される自然現象の属性を自らの意志で働かせて世界を動かして行くものとしての、つまり時間とともに刻々と変化していくこの世界を動かしている意志として崇拝されるようになっていく。これがアニミズムの「精霊」である。ちなみにアニミズムでしばしば「カミ」という言葉が使われるがこれは普遍宗教(キリスト教など)の神が様々な自然物に宿っているという意味ではない。アニミズムの「カミ」(=精霊)はあくまでも人間の感情が転化したものであり、天地創造を行ったりこの世の全てを統括している普遍宗教の神とは全く性質を異にする。