【第5章 仏教の理 F】日本の仏教

日本の仏教の宗派による特徴の違い

日本に釈迦の教えが入ってきたのは六世紀頃である。その後仏教は国教化され、キリスト教のように正統・異端の争いを起こすこともほとんど無く様々な宗派が日本の中で生まれてきた。ここでは、その中でも「禅」「密教」「念仏仏教」について見ていこう。

禅は日本においては栄西の臨済宗と道元の曹洞宗そして隠元の黄檗宗(おうばくしゅう)と三つの系統に分けられる。もちろんこれはかなり大ざっぱな分け方であって、実際はもっとたくさんの宗派に分かれている。また、黄檗宗は臨済宗の流れをくむものなのでここでは触れない。

臨済宗は公案と呼ばれる、いわゆる禅門答を基本とする宗派である。これはすぐれた禅僧の言葉の記録を一つのきっかけとして師匠と弟子の問答によって悟りを開こうとするものである。公案が「象徴」しているもの、つまり公案の奥に隠されている意味を見出し、それを繰り返すことによってその奥に隠されているものに共通する抽象つまり悟りを見出そうとするものなのである。例えば公案とは次のようなものなのである。

「牛が窓のところを過ぎていく。角、頭、体や足が過ぎていった。しかし、なぜか尾が過ぎていかない。これはどうしてなのか。」(牛過窓櫺:『禅の本―無と空の境地に遊ぶ悟りの世界』学習研究社)

これに対して曹洞宗は只管打座(しかんたざ)、つまりひたすら座禅に励むことで悟りを開こうとするものである。座禅は単に坐るだけではなく、精神を集中させ心が散漫な状態になってはならないものである。これは、精神集中することによって自分という象徴を抽象の域までに高めようとする行為であろう。

この臨済宗と曹洞宗は同じ禅宗でありながら悟りに至る道が異なり、しばしば互いに批判しあっている。臨済宗は曹洞宗のことを「黙照禅(もくしょうぜん)」つまりただ坐っているだけの禅と批判し、曹洞宗は臨済宗を「看話禅(かんなぜん)」つまりただ話をしているだけの禅と批判している。しかし、後には曹洞宗は「ただひたすらに坐っていることこそ悟りへ至る唯一の道である」として黙照禅こそ禅の本来の道であるとして黙照禅という言葉を誹謗の言葉から曹洞宗の特性を表す言葉として採用してしまった。また臨済宗も「話をしていることによって悟りへ至ることが出来るのである」として看話禅こそ禅の本来の道であるとして看話禅という言葉を臨済宗の特性を表す言葉として採用してしまった。お互いに批判はするがお互いの存在を否定はしていない。キリスト教が互いに否定しあって正統・異端という考え方をするのに比べてなんとも平和なものである。

どの宗派にしても、禅は自分という属性を持った「象徴」が悟りという「抽象」を見出すために修行をするものなのである。また禅宗には日常生活において余計なものをすべて切り捨てていく姿勢が得に色濃く見られる。

密教

密教は仏教の中でも呪術的な要素がかなり顕著に見られる宗派で、インドのヴェーダに基づいた宗教にかなり似通っているものである。「曼陀羅」と呼ばれる宇宙の真理(抽象)を「象徴」的に表した図を理解することによって宇宙の真理を理解しようとするが、この曼荼羅はよく見てみるとどれも何らかの菩薩や如来が描かれていて、その手の上げ方や足の組み方、菩薩や如来の並び方の一つ一つにはきちんとした意味があるという。あるいは梵字というやはり文字一つ一つがそれぞれ宇宙の真理を表した表意文字を発音する(象徴の文字を抽象的に捉える:真言)ことによって抽象との接触を図る。梵字は単に宇宙の真理を表しているだけではなく、その象徴的なものが人格化していて、一つ一つの梵字が例えば不動明王や釈迦如来、薬師如来といった仏を象徴している。また、陰陽五行説との結びつきも見られる。例えば、墓場に立っている卒塔婆に書かれている文字は梵字で陰陽五行の五行に対応する文字が五つ書かれていて、一切の功徳がそこに存在しているということを意味しているといる(五輪法界)。また卒塔婆の切り込みの形からその立てられる向きにいたるまできちんとした意味があるのである。

一般的には呪術の形態のみが伝えられ、その呪術形態のみが興味本位の対象となり、また立川流という男女の性交によって宇宙の真理との接触を図ろうとする宗派もあるために誤解を受けやすく、訳のわからない怪しい宗派といった印象を受けてしまうこともあるようだ。しかし本来は仏教の哲学を深く学んだものにとってこそ密教は意味があるものなのである。仏教哲学の伴っていない密教は無意味であり、うわべだけ見ていたのではそれは単なる迷信と何も変わりないのである。つまり知識としてだけの密教は何も意味をなさないのである。

また、密教は文字通り秘密の仏教であり、一般の人間にはその教義や曼荼羅や梵字の複雑さは何が何やらさっぱりわからない。秘密にすることによって、つまり理論を一般化してわかりやすくしないことによって権力は得やすくなるという側面もあろう。

念仏仏教

日本において末法思想というものがもてはやされた時代があった。末法思想とは釈迦の入滅後次第に釈迦の言葉(仏説)のみが残って仏説の実践やその実践の結果が失われていく時代に入っていくという考え方である。この考え方が広まると、個人がどんなに修行をしたところで決して救われることはないという考え方が流行し、自らの修行によらず既に悟りを開いている人物(仏)にすがることによって現世の苦しみから救ってもらおうとする考え方が出てきた。これが念仏仏教につながってくるのである。

念仏仏教の特徴は特別の修業を行わなくとも誰でも仏にすがる、つまり苦しみから救済されることができるということにある。このことは仏教の普及には大きな貢献をなしたといえよう。実際に仏教の教義を学んだり理解したりすることの出来る人間は圧倒的に少ないわけであるが、単に念仏を唱えるだけなら誰でも出来るからである。また仏教の複雑な教義を学んだり理解したりすることのできない生命(「人間」と書かなかったのは、輪廻転生によって全ての生命がつながっていると考えるからである)が仏になることが出来ないというのは、仏教根本の「全てのものを受け入れる」という命題に反するものであるといえよう。

具体的には浄土教系統のものが念仏仏教に当たる。例えば「南無阿弥陀仏」という念仏は阿弥陀仏にすがる念仏である。自分で辛い修行をすることなく、この念仏を唱えることによって簡易に救済を得ようとするわけである。このような自分で修行することによらず救済を得ようとする立場を「他力」という。逆に、禅のように自分が修行することによって自ら苦しみから抜け出ようとする立場を「自力」という。

どのような宗派にしろ、仏教というものは全てこの世に存在するありとあらゆる苦しみから逃れ何ものにも惑わされないようになろうとするものであり、仏教の中の宗派の違いというのはその苦しみから逃れるための手段の違いにすぎないものであると考えられる。仏教は苦しんでいる人間の為の世界観なのである。